騒動の発端
八幡騒動の経過は、文政十一年(一八二八年)加賀金沢城主前田淡路守から、魚津八幡社へ賜った剣梅鉢の前田藩主御定紋付の提灯四張りを八幡社の御用人秋山志摩助が紛失したか破損したことから、不注意不届きのかどで魚津町奉行岡田平兵衛からきびしい叱責を受け、当分のあいだ出祭り禁止の布令が出て、この宮の祭りをいっさい禁止した。さらに翌十二年三月、市内諏訪町の諏訪社の祭りのことで、当時交代で神事を受け持っていた市内神明社と八幡社が争い、双方が藩の寺社奉行に訴えた。これらを不満に思った氏子二十余か町の町民たちが、六月十八日、二十一日、二十三日のそれぞれ夜十時ごろから、町内一か所に集まって太鼓を鳴らし、鬨の声をあげて騒ぎ、奉行所に押しかけて三晩にわたり春祭り執行の請願をした。
諸某者の検挙と打ち首
それに対し、寺社奉行が金沢から出張、役人にたてつく不穏な行為として、市内角川町の倉屋伝四郎宅に出張役所を設けてきびしい詮議を行ったので、同月二十七日には氏子七百四十余人が、出張役所に集まって役人に暴言をはいたりした。そこで七月六日から騒動の首謀者の検挙が始まり、町役人、肝煎、町頭、組合頭をはじめ氏子らを、金沢公事場に召し出して入牢を申し付け、天保元年(一八三〇年)七月十八日、漁師市右衛門、浜屋彦助、九月二日には吉見屋幸助が打ち首のあと 梟首にされた。これは魚津史誌にある越中資料の富田旧記によるのであるが、八幡社神主高松正治氏の手許にある先々代高松令順氏(大正十四年七十八才で没)からの覚書によると、魚津はいつのころかわからないが、岡町以西を上手上口と呼び八幡社の氏子地、荒町以東を下手下口と呼んで神明社の氏子地と区別し、祭礼などを営んできたが、文政十二年(一八二九年)神明社神主の高倉氏、八幡社神主の田代氏の両名入合神勤の諏訪神社の斎神につき、山幸の猟の神か海幸の猟の神かで主張して争い、ついに一大論争となり、その結果、その神主の奉仕している本社にその累を及ぼした。当時の町奉行岡田八兵衛は、八幡社の神主たる田代氏に対し、私憤私怨あって八幡社に対し悪い扱いをした。そこで氏子たちが怒って定規を越え、当時江戸小石川の伝通院五十八世の住職玄順上人が魚津西願寺の徒弟であった縁故をたより、密書を送って上人から幕府に直訴してもらおうとした。それが途中で発覚したため、町奉行ならびに富山、加賀藩を怒らせ、役人、町頭、組合頭をはじめ氏子など六十七人を金沢公事場に召し出し、四十一人に入牢を申し付け、首謀者として三人を梟首の刑に処した、とある。

八 幡 騒 動 犠 牲 者 納 経 塚 (住吉) |
騒動に対する裁定
一、八幡社は社有地を二か所に持つと主張するが、一か所については証拠が怪しいので田地方の社有地しか認められない。
一、八幡社の神主が神明社の氏子の祭りにまで出かけているが、これは神明社にとって迷惑だから榊振は今後やめること。
一、諏訪社の祭神については、八幡社がわは事代主命、神明社がわは建南方命と主張しているが、これは神明社が正しい。今後は八幡社から諏訪社へ立ち入らぬよう、高倉持分の宮とする。
といったもので、八幡社側の主張が通らなかったことになっている。
今でも八幡社の祭りには、八幡騒動の犠牲者の首塚の前まで渡御して霊を慰める。
八幡騒動の原因については、前記のように二通り考えられるが、藩政時代には一揆行為はきびしい法度であった。
「何事によらずよろしからざる事に百姓大勢申し合わせ候を徒党ととなえ・・・」
これは、百姓一揆の密告を懸賞金付きで奨励した明和七年(一七七〇年)の幕府の通達で、魚津町でも同文の高札を立てた。
このようなときに神主の勢力争いに氏子が巻き込まれたにしては犠牲が大きすぎるし、文政、天保期の幕府や、武士の権威が地に落ち、大塩の乱をはじめ民衆の決起が全国各地で起こった時期といっても、神主の争いに氏子が死罪を覚悟してまで立ち上がるのは、よくよくの事情がなければと思われる。考えられることは、八幡社の氏子には漁民が多く、その信仰が厚かったということであろう。そのことを示すものに、八幡騒動ののち八幡社が廃社同様になっていたが、八幡社のみこしが金沢に保管されているとわかると、大金を積んで氏子代表がみこしを持ち帰り、氏子たちは何日もみこしを囲んで喜んだという。
これは氏神信仰の一面を語る話しである。
この漁民の町が大正七年の米騒動の火口を切ったことおも考え合わせると、八幡騒動は漁民の精神生活、熱狂的な性格、この町の気風が、祭り禁止ということに対して、死の抵抗の歴史をつづったものといえよう。その歴史が庶民の心を打ち、顕彰碑となって、その義勇を後世にまで語り伝えるものとなったのであろう。
(魚津市史 上巻 より)
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